以前、
泉州銘菓 村雨 の記事の中で食野(めしの)長者が上方落語に登場すると書いたのですが、今回は、そのことに少しふれてみたいと思います。
食野(めしの)一族
食野一族は14家。唐金家とは強い絆で結ばれていました。食野の人が唐金の名跡を継いたり、その逆であったりしていました。 食野家の全盛期は江戸中期 寛永十六(一六三九)年から文化十四(一八一七) 年の約百七十年間で、屋号を和泉屋・橘屋とも言っていました。
豪商食野・唐金は、廻船業(かいせんぎょう)を営むとともに(運輸業)、佐野・大坂・江戸に数多くの屋敷・蔵・店を所持し(商業)、これらによって得られた巨万の富を活用した大名貸し等(金融業)も営み、これらを組み合わせた事業ネットワークを全国展開し、さらに巨万の富を築きました。
日本永代蔵にも登場
豪商食野(めしの)・唐金(からかね)は泉州佐野の中でも群を抜く長者でした。
井原西鶴( 江戸時代1642年~1693年の作家)の
『日本永代蔵』にも、「このごろ泉州に唐かね屋とて、金銀に有徳なる人出来ぬ。其の名を神通丸(じんつうまる)とて、三千七百石つみても足かろく、、、」と記されています。また、
貝原益軒の
「南遊紀行」にも佐野の商人について「商人多く船を持って家業とす」とあります。さまざまな資料から、佐野の長者たちは廻船業で長者になったことがわかります。
上方落語 莨(たばこ)の火
食野長者が登場する噺として有名なのは
莨(たばこ)の火 です。(他にも一つか二つあったように思います。)
食野家の崩壊は10代目次郎左衛門常貞(寛政元年1789~1852嘉永5年)から始まる。常貞は花街で常識外れの浪費をして、食野の暴れ長者の異名で知られている。その蕩尽ぶりは、落語の、
莨(たばこ)の火 になっています。
次に演者の2代目 桂小南 について
2代目 桂小南
2代目 桂小南は、東京で上方落語を演じていた人として有名でした。
2代目 桂小南(1920年1月2日 - 1996年5月4日)は、本名: 谷田金次郎。76歳没。
京都府北桑田郡山国(現在の京都市右京区)の生まれ。日本橋の呉服問屋で丁稚修行をした後、1939年、3代目三遊亭金馬の内弟子となり、山遊亭金太郎を名乗る。入門当初は金馬が東宝専属であったため、寄席の定席には出られず、主に東宝名人会で前座を務めていた。戦時中に召集を受け、1945年に復員。1951年、定席の高座に出るために金馬の口利きで2代目桂小文治の身内となる。1958年9月、8代目桂文楽の好意で2代目桂小南を襲名して真打となる。落語芸術協会所属。出囃子は『野崎』。
京都の訛りが抜けず伸び悩んでいたところ、3代目三遊亭金馬より上方噺に転向するように言われ、これまで習得した江戸噺を封印。以降、富貴、戎橋松竹などに出かけては、ヘタリ(囃子方)を勤める傍ら、上方の若手(3代目桂米朝・3代目桂春團治・6代目笑福亭松鶴・5代目桂文枝ら)に混じって、古老落語家より上方噺を教わった。中には稽古を付けた橘ノ圓都が自信を取り戻し、高座に復帰した例もあった。(ウィキペディアより)
まさに経営セミナーでよく使われている 短所は長所 を体現したわけです。
最後に食野長者と村雨の関係について
今から240年前(1765年・明和2年)、食家の番頭 形部(ぎょうぶ)庄兵衛は奥州(秋田県)から小豆を持って帰り、今までに無い蒸し菓子をつくり主人 食野次郎左衛門に差出したのが始まりで、領主 岡野美濃守が病気で食欲不振のとき、食野家からお見舞いに差し上げました。 殿様はその淡白優雅な風味を賞でられた。手に持てば、ほろほろと粒が落ちるのを、そぼ降る時雨の水滴を連想して、
「時雨」と名付けたと言われています。
Posted by 安儀製餡所 at 20:53
泉州銘菓 村雨 (むらさめ)
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村雨 (むらさめ)という和菓子をご存知でしょうか?
上方落語の
七度狐に出てくる安物の酒ではありません。泉州で昔から親しまれている和菓子で、これも上方落語でお馴染みの
食野(めしの)長者が好んだという言い伝えもあります。
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村雨(赤)
生あんと砂糖、上新粉、糯粉を素早く混ぜ合わせ、それを型に入れて蒸籠(せいろ)で蒸し上げます。ですから見た目がよく似ていても
高麗餅と製法が大分違います。高麗餅は先に生あんと砂糖を練り上げ
火どりあんにしそれを裏ごしして粉と混ぜ合わせます。一方村雨(むらさめ)は生あんをそのまま使うためその品質と、混ぜ合わせを素早く丁寧にすることがポイントになります。
村雨(むらさめ)は岸和田と泉佐野では粉とあんの配合が違うことにより食感、味が異なっています。また以前は小豆を使った赤い村雨(むらさめ)がほとんどでしたが、最近は白豆を使った白い村雨(むらさめ)をだす店も増えてきました。
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村雨(白)
この「村雨(むらさめ)」という名前は大阪府貝塚市の 「御菓子司 塩五」というお店のものだそうです。したがって他のお店では「~時雨(しぐれ)」という表示になっています。でもあまりにも一般的なのでどのお店でも「村雨(むらさめ)」で通じます。
いずれにしてもその製造は手作業によるところが大きく、そのお店独自の味が楽しめます。ぜひ一度ご賞味ください。
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Posted by 安儀製餡所 at 18:50
泉州銘菓 村雨 (むらさめ)
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