酒種あんぱん

2012年06月06日
南方熊楠が愛好したという、あんぱん(レシピから酒種あんぱんと思われる)について簡単に触れてみたいと思います。

酒種あんぱんの歴史=何と言っても有名な木村屋總本店さんの歴史と言えます。(以下ウィキペディアより)

face01あんパンの歴史

あんパンは木村屋(現・木村屋總本店)創業者であり茨城県出身の元士族・木村安兵衛とその次男の木村英三郎が考案し、1874年(明治7年)に銀座の店で売り出したところ好評を博したとされる。

翌1875年(明治8年)4月4日、花見に行幸した明治天皇に山岡鉄舟が献上し、木村屋のあんパンは皇室の御用達となった。これにより、あんパンと共に木村屋の全国的な知名度も上がった。以降、4月4日が「あんぱんの日」となっている。

face01 木村屋總本店の酒種あんぱん

木村屋のあんパンは、パン酵母(ホップを用いたもの)の代わりに、酒饅頭の製法に習い日本酒酵母を含む酒種(酒母、麹に酵母を繁殖させたもの)を使った。中心のくぼみは、桜の花の塩漬けで飾られた。パンでありながらも、和菓子に近い製法を取り入れ、パンに馴染みのなかった当時の日本人にも親しみやすいように工夫して作られていた。

face01 大分県由布市の酒種あんぱん

大分県由布市で、日本酒を造るときの酵母菌(酒種)を独自に純粋培養してパン生地に混ぜ込んで作られている、日本人になじみの深い酒種あんぱん。酵母菌を144時間ねかせて低温発酵で超熟した酒種あんぱんを完成させるまでに15年余の歳月がかかっているとのこと。麹は黒麺を使用している。


face01 最後に南方熊楠はどんなあんぱんを食べていたのでしょうか?

南方熊楠の経歴から抜粋しますと

1883年(明治16年) - 和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立学校(現、開成高校)入学。

1886年(明治19年) - 中間試験で落第したため予備門を中退、和歌山へ帰郷。 12月22日 - 神戸港より渡米。

1900年(明治33年) - 大英博物館から出入り禁止の処分を受ける。14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院(泉南郡岬町)次いで和歌山市の円珠院に居住する。

1902年(明治35年) - 熊野にて植物採集、採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。多屋勝四郎らと知り合う。

熊楠の日記を読んでいないのであくまでも推測ですが、1902年(明治35年)ごろには、全国的に酒種あんぱんが普及していたと考えられます。

そこで、永住の地と定めた田辺で作られた酒種あんぱんを好んだと考えるのが普通でしょう。

大酒のみの熊楠があんパンをいくつも抱えていた姿は想像するだけで滑稽です。

和歌山は昔から湯浅の醤油金山寺味噌、あるいは和菓子では酒饅頭と麹を使った食品が有名です。したがって良質の麹からおいしい酒種あんパンが作られていたと考えられます。

また、熊楠の実弟である常楠の家系は、世界一統という造り酒屋として現在も続いているとのことですから、なにかとに縁があったようです。




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Posted by 安儀製餡所 at 22:44 あんこの楽しみ方コメント(0)
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